2021年10月31日『人間の賢さと神の愚かさ』

「福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。」(ローマ1:17)


 マルティン・ルター( 1483 1546 年)は道で落雷にあい、自分が生かされた事実のゆえに、修道士になることを誓った。しかし、修道院で熱心に修業に励んだが、魂の平安を得ることができなかった。しかし、ローマ1:17のみ言葉によって、遂に魂の平安を得ることが出来た。
 その当時、ドイツの大司教アルブレヒトが、さらに高い大司教の座に立候補する。この地位を得るために多額の献納金が必要であり、ローマ教皇庁はそのために免罪符を販売した。その免罪符の販売を知ったルターは激怒し、大司教宛てに「95か条の堤題」を送りつけた。その日が、1517年10月31日であった。 
 デューラーは、生涯を通して信仰に篤く、ルター派の宗教改革運動に深く関わるようになった。晩年には、「四人の使徒」( 1526 年)を描いた。これは、宗教改革に揺れる自分の町に対し、聖書を正しく理解して欲しいとの願いが込められたものである。
 宗教改革の中身を見ていくと、賢そうな考え方と愚かに見える考え方がある。サタンがエバに語った誘惑の言葉に、人間が求めたものは、神の知恵を上回る「賢さ」であった。一方の神様は、ご自分から離れていく人間に対してその溝を埋めるために、自らが「愚か」になった 。(ピリピ2:6〜8)
 人間は自分の賢さがあれば、何とかなると思っているが、神の愚かさがなければ、人は神に近づくことができない。神に従うとは、この神の愚かさに従うことではないだろうか。